双子2組のお父ちゃんが語る☆発達障害の娘を持つ親として。乳児期より。

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子供が生まれる時、
親は元気な子が生まれてきて欲しいと願う。

世の中には、
身体が不自由で生まれてきたり、
脳に障害を持って生まれてきたり、
ダウン症を持って生まれてきたり、
そういう子がいることは知っていました。

しかし、まさか自分たち夫婦のところに、
障害を持った子が生まれてくるとは思わず
どこか別の世界の話と思っていました。

元々、子供好きな私たち夫婦は、
10年という長い間、
「子供が欲しい」と願っていました。
そして、やっと宿ったお腹の子供達に
「染色体の異常がある確率が高い」
と医師から言われたのです。

最初はどん底に突き落とされる思いでした。
しかし、夫婦で話し合い
「どんな子が生まれても育てさせてもらう」
そう心に決めた日があったのです。

その後の検査で、染色体の異常については
大丈夫だろうということになったのですが、
一卵性の双子でリスクが重なったこともあり
27週で生まれてくることになりました。

広がる発育の差。

姉が 1042g。妹が 722gという
「極低出生体重児」と「超低出生体重児」で
生まれた二人は想像以上の小ささでした。

特に妹の方は、生まれてから脳に酸素が
届いていなかった時間があったようで、
片方の脳が委縮している症状の
白質軟化症と診断されました。

医師の話では、
「将来、成長する過程で何らかの症状が
 出て来ると思います。」
というもので、
どんな症状が出るかも分からないのです。

不安はもちろんありましたが、
その時は、いつ息が止まるやもしれない
我が子を見守るのが精一杯で、
その事を心配する余裕がありませんでした。

長いNICUでの入院を経て、
娘たちが病院から自宅に戻ってました。
間近で生活する中で、少しづつ
成長の違いに気づきました。
最初は、生まれた時の体重差や
退院した時期の違いと思っていたのが、
そうではないことも分かってきたのです。

生後9か月の次女は、笑いませんでした。
抱っこをしても、あやしてみても、
くすぐっても笑いません。
1歳の誕生日を迎える頃、ようやく
少しづつ笑うようになって安心したのを
よく覚えています。

また、ハイハイをし始めるのも遅く、
1歳になっても寝返りがやっとできるくらい
だったのです。
一緒に生まれた長女は歩行器で動き回り、
そろそろ歩くだろうという時期でした。

次女の姿を見ながら、
この子は歩けるようになるのかな?
そんな不安もよぎりながら、
もう一方で、長女にいつ頃おいつけるだろう
そんなことを考えたりもしました。

発達の遅れは気にはなりましたが、
生まれてきた時の状況や、
声門下狭窄症でいつ呼吸が苦しくなるか
分からないという中で、
命があることがありがたい。
今の姿があることがありがたい
と、妻と二人でよく話していました。

長女が1歳半ですたすた歩いていた頃、
次女はやっとハイハイをし始めました。
ハイハイと言っても腹ばいでずるような
ズリバイといった感じのものでした。

それでも、自分の思う所に動けるようなり
活動の範囲は大きく広がりました。
それまでの成長の過程を見てきた私達は
とても嬉しく思いました。
少しづつでも成長していることに
未来を感じることが出来たのです。

寝ている次女を長女があやす。
双子なのに年子のようになっていました。
不思議なことに、長女があやすと
次女がよく笑うのです。
心で通じ合う姿を感じました。

次女が歩き出したのは2歳半。

2歳の誕生日を迎える頃。
長女はよくお話をしました。
声門下狭窄症で声はガラガラでしたが、
「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼び、
自分の思いも、少しづつ伝えることが
できるようになってきたのです。

その頃、次女はというと、
やっと「アンパンマン」などの単語が
ハッキリしないながらも言えるように
なってきました。
周りに興味を示すようにもなってきました。

歩くことはできませんでしたが、
ハイハイのスピードがとっても速く、
歩かなくても不自由しないというくらい
自由に動くようにはなっていました。
酸素を送っていた管もはずれたので、
行動範囲が格段に広がったのです。

一卵性の双子で遺伝子がほぼ一緒ですから、
発育差が出るということは白質軟化症による
脳の異常があると容易に考えられます。
それぞれの成長を喜びながらも、
現実を突きつけられる思いもありました。

私達夫婦は、これまでの過程を見てきて、
出来なかったことが出来るようになる
という喜びが大きかったのです。
しかし、家に遊びに来てくれた方が、
2歳を過ぎても歩けない姿を見て
どんなことを思っただろうと考えます。

年齢を尋ねられて、
「2歳です」と答えると、みんな一様に
驚いて言葉が出なくなります。
そのリアクションに慣れている私達は、
「小さく生まれたんで…」と答え
ハッハッハッと笑うのです。
相手の方が聞いて失敗したと思わないように
と心がけていました。

障害を持つ子の親は、大なり小なり
そんなことを思いながら過ごしています。
周りの人達が子供に接してくれる時に、
嫌なな思いや残念な思いをしてほしくない。
関わるのが嫌だと思ってほしくないのです。

次女は次女なりに成長していきました。
そばに双子の姉がいたということが
とても大きな刺激になっていました。

2歳になっても歩けない次女でしたが、
なかなか自分から歩こうとはしません。
ハイハイで満足しているのです(笑)
お父ちゃんがいよいよ気を揉んで
歩く練習をスタートさせたのです。

最初は、すぐに座り込みました。
歩きたがらないのです。
しかし、わきの下を持って歩かせてみたり
両手を持って歩かせてみたりしました。
少しづつ出来るようになったら喜ぶ、
その喜ぶ親の姿を見てやる気を出したのか
徐々に歩けるようになったのです。

次女が一人で歩けるようになったのは
2歳も半ばになった頃でした。
とっても遅い遅い歩き出しでしたが、
確かな成長のあかしでした。
もしかしたら歩けないのかもしれない
と考えていた私達の喜びは、
本当に大きなものだったのです。

食べ物のこだわり

発達障害の子には、感覚が過敏になり
偏食になるケースが少なくありません。
長女も次女も好き嫌いがありますが、
特に次女は偏りが大きく、
味覚や食感、匂いなどから
食べられる物が限られていたのです。

生まれてから、ずっと母乳でしたが、
NICUの時に哺乳瓶で飲んでいたので
家に帰ってきてからも、お母ちゃんの
おっぱいから飲むことが出来ませんでした。
乳首に慣れなかったのです。
お母ちゃんは毎回、母乳を絞ってから
哺乳瓶で与えていました。

1歳前後から離乳食を食べ始めましたが、
今思うと複雑な味のものより、シンプルな
味のものをよく食べていたように思います。
しかしその時はあまり深く考えることは無く
よく食べるものを与えていました。

しかし、普通食になっての偏りは
想像を超えるものがありました。
ほとんど何も食べられないのです。
口に入れても出してしまいます。
バナナと牛乳をミキサーで混ぜた
バナナジュースだけで育った時期があった
と思うほどの時がありました。

それくらいこだわりが強かったのです。

食だけではなく、様々な過敏さから、
辛い思いをしたんだろうなと思うことが
たくさんあります。
初めは「なんで?」と思うことが多く
慣れさせないとと考えたこともありました。

しかし、そうではないのです。
好き嫌いでも、わがままでもないのです。
身体が受け付けないのです。
そう思うと、本当に辛い思いをさせたなと
つくづく感じています。

偏食については別の記事に載せてあります。

発達障害の娘を持つ親として。

発達障害を持つ次女の、
乳児期について振り返ってきましたが、
この記事が、発達障害を持つ子供の
お父さん、お母さんの参考になったり、
元気のもとになることを願っています。

他の子と比べて、気持ちが落ち込んだり
手が掛かることを大変に思ったり
どう対処して良いのか分からなかったり
そんなことがたくさんあると思います。
誰もが、そう思うことがあるのです。

昨日より今日、の成長が感じられなくても、
一年前よりは今、の成長は感じられます。
成長を喜び、先の成長を楽しみながら
自分にできる子育てをしていきましょう。
その思いや心は必ず伝わります。

次回はさらに成長した段階の
次女の様子や、親の思いを
記していけたらと思っています。

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